NHKで5月に、朝ドラだった ”とと姉ちゃん” が再放送すると知り、私はとても喜んでます!個人的にこの創始者・大橋鎭子さんと、花森安治さんのファンだからです!
戦後の何もない暮らしを、工夫して楽しくするために、お金がなくても出来ることをとことん追求して、家族や女性達を助けようと奮闘し、生み出した『暮しの手帖』の社長・大橋鎭子さんをご紹介いたします。
とと姉ちゃん 大橋鎭子さんの少女時代
大橋鎭子さん、1920(大正9)年、3月10日、父・大橋武雄さん、母・久子さん夫妻に長女として誕生しました。
のちに、2歳下に春子さん、5歳下に芳子さんという妹二人が生まれます。
鎭子さんが10歳の時に父が病気で他界。父が亡くなる前に、鎭子さんにみんなの事ををお願いしたのです。
鎭子さんは10歳で喪主も務めました。
そして鎭子さんは、父の代わりにみんなを幸せにすると、心を決め、”とと姉ちゃん” になったのです。
小学校を卒業後、「東京府立第六高等女学校」で先進的な教育のもとで、生涯の親友を得たり、心も健やかに育ったのです。
ドラマでは、素敵な先生に出会う場面もあります。
3年生(14歳)で、練り歯磨きを思いつく起業家でもありました
《おお!もうそんなお金を生み出す突飛な発想が出るなんて、やはり暮しの手帖の先駆け的な!と、私はニヤッとしました》
とと姉ちゃん 大橋鎭子さんの進路
女学校を卒業後、大半が嫁いでゆくなか、鎭子さんは働く道へと進み、日本興業銀行に入り、父親のような良き上司に、雑誌の編集にかかわる手ほどきなども学び、のちに役立つことになります。《導かれているように感じますね!》
三年後、大学に入り直すも、一生懸命な性格で頑張り過ぎたのでしょうね、体調を崩し半年で退学。でも、諦めません。
日本読書新聞社に入社します。活字の仕事がしたいから。
鎭子さん21歳。その年、1941年の12月に真珠湾攻撃・太平洋戦争が起きます。
1945年8月終戦後に、新聞復刊。復刊後しばらくして編集長に、女の人の為の出版がしたい、自分で事業をはじめたいと相談すると、花森安治さんを紹介されます。
この時鎭子さんは25歳でした。
とと姉ちゃん 大橋鎭子さんと花森安治さん
私は、最初に花森さんの写真を見たときに、失礼ながら怖い顔だと思ったんですよ~。
鎭子さんも最初に34歳の花森さんを見たときに、やはり怖かったそうで、近寄りがたいかったようです。
でも、勇気を出して話をしてみると…
花森さんは、頷きながら鎭子さんの話を聞き、「君は親孝行なんだね、ぼく母親に孝行できなかったから、君のお母さんへの孝行を手伝ってあげよう」と言ってその日のうちに話は決まりました。
18歳の時に母を病気で亡くしていた花森さんの胸に、鎭子さんの決意が響いたのでした。
鎭子さんと花森さんは、”戦争をしない世の中にしていくための雑誌を作る” 女の人の役立つ雑誌、暮らしが少しでも楽しく、豊かな気分になる雑誌。なるたけ具体的に衣食住について取り上げる雑誌。
方針は決まりました。
1946年3月に、銀座の日吉ビルの一室を借りて、鎭子さん、妹の春子さんと芳子さん、花森さん、花森さんの知人の横山啓一さんの5人で、出版社「衣装研究所」が出発。
銀座は、花森さんが選んだ場所で、さすがハイカラですね!
言い出しっぺの鎭子さんが社長、花森さんが編集長に就任。
最初は、『スタイルブック』という、衣をメインにした本ができたのです。
私は、リアルタイムでこの本を買えませんでしたが、運良く、2016年82号の特別付録に、当時のスタイルブックの復刻版がついていたので持ってます!定価12円。
色彩豊かで美しく、ヘアスタイルも色々。文面は、いかにも花森さんだろうなと思うものです。
Vネックワンピースの型紙までついてますが、まだ作っていません、浴衣のワンピも…。
きれいで丁寧で少し辛辣な文も魅力的な本で、当時の読者の気持ちのように、見てると楽しいです!
(補足)1948年・鎭子さん28歳、それまでのスタイルブックは、食・住・随筆が加わり、『美しい暮しの手帖』と名を変えて生まれ変わりました。
現在の『暮らしの手帖』になったのは、5年後の1953年です。
鎭子さんは、鬼の編集長・花森さんと二人三脚で、衣食住+名だたる著名人の随筆を入れた雑誌を作るにあたり、周りは素晴らしい編集部員で固めて始動します。
この雑誌で一番過酷だったのは商品テスト(各メーカーの商品を何回も何回もみんなで使い倒す)だったようです。ストーブの商品テストなど、命懸けの作業もかなりありました。
花森編集長は編集部員が書いた記事を忖度なしで、問答無用に赤ペンチェックするのです。
《青い顔した編集部員の顔が見えそう》
病める時も健やかなるときも、時には笑いあり、涙あり、家族として『暮しの手帖』を精魂こめて作って、令和の今も続くのです。
1978年1月、花森さんが心筋梗塞のため66歳で亡くなります。
鎭子さんは、編集長兼社長になります。
その後も鎭子さんは、1983年に、『牛久沼のほとり』の装丁を手掛け、装丁賞を受賞したり、花森さんが得意だった装丁も鎭子さんは出来たり、花森さんのマインドを、鎭子さんと40数名の編集部員はしっかり受け継ぎました。
鎭子さんは、2013年3月、93歳で亡くなります。生涯独身で出版に命をかけました。
~ここからは、私が感じた大橋鎭子さんを勝手に発表いたします!~
大橋鎭子さんの素晴らしいところ☆
有言実行 あきらめない:父との約束を守るために、言い出したことはやりぬく。
愚痴や泣き言を言わない・プラスお節介(人の世話好き): 下町女そのものだと感じます!
人を大切にする 仕事上でも、そうでなくても、人に親切にし、大切にするがモットーで、鎭子さんがしてきたことが、いい形で自分に返ってくる人です。人に分け隔てなく接することができる人ともありました。人が好きなんだと思います!
足が丈夫 若い時から原稿を貰いに飛び回り、その姿を知り合う前の花森さんから見られていたそうです。出来上がった雑誌をリュックに詰めて、神奈川・静岡あたりの本屋さんまで売り込みに行ったそう。重いリュックを背負って。その土台が、晩年の鎭子さんの足を丈夫にさせたのかもしれませんね。
頼むより頼まれる人 頼まれたらそれを何としても叶えてあげる。物資がない時も、あちこちかけずりまわり、どこからか探してきてくれる、期待を裏切らないドラえもんのような存在だったようです!
女の人の味方 そもそも暮しの手帖をつくる理由が、女の人の為の役に立つ本を出版したいことや、当時は学校出たらお嫁に行くのが主流だったのを、自分の会社で女性から活躍してもらう環境を作るったのです。困っていた親友を誘って一緒に働いてもらったこともそうです。
大橋鎭子さんのすごいところ☆
~鎭子さんは83歳まで暮しの手帖の社長勤め、92歳社主であり、自分の足で会社に出ていたことも驚きです!!~
人徳 花森さんというおっかない人に勇気を出して声をかけ、「君のお母さん孝行を手伝うよ」と言わせたり、暮しの手帖の原稿を、大物作家や著名人などに依頼するも、なかなか原稿が出来ずに貰えなかったりしてもめげずに何度も。最後には原稿を貰える。難しい相手の心をつかみながら、最終的に味方につけるような人徳があるのです。
モデル 社長や編集だけでなく、雑誌の中のモデルをつとめ、手のモデルもつとめ、フル稼働。手のモデルは80代になってもやっていたそうです。その分、家事で手を酷使しないようにしていたようです。妹の春子さんや家政婦さんのサポートがあったそう。《指が奇麗だと女性らしくて素敵!わたしの指は…。と思わず見る》
大橋鎭子さんの好きなもの☆
お洒落 キレイな色・水玉模様が好み。自分に似合う色を分かっている。ベレー帽や小物も取り入れる。ブランドには興味はなく、服も靴もオーダーメイドで作ったそう。色んな花森デザインの洋服を着こなしては雑誌に登場し、自身の洋服も洗練されたセンスの持ち主だと思いました!花森さんと気が合うのも分かりました!
食べ物 お肉・刺身・バターライス。しかし、高級なものと庶民的な物にこだわりはなく、質の良い食材をシンプルに調理して頂くのが好きだったようです。せんべいやチョコなども日常的に食していたと。《こういう所に親近感がわきます!》
テレビ 時代劇と刑事ドラマ。スッキリする終わりが好きだったようです。《なんか、わかります》
大橋鎭子さんの容姿☆
私の印象だと、小さい時からお顔は変わってないです。
可愛い目で、笑顔が爽やかで、歯を見せて笑っている写真が多い、感じのいい人だと思います。
手元にある本の写真の中で、緑色の濃いもの・薄いもの両方とても似合っています。
そこに、知的な雰囲気や品もあります。お年を召してもきれいで、品ある姿は変わってないなあと感じました!
最後に、大橋鎭子さんのありがたい言葉☆
「物事は、タイミングと決断が大事。これっと思ったときにパッとやらなきゃ」
大切なことですね。私も座右の銘にし、後悔しないようにやってゆきます!
私の本棚の、数少ない『暮しの手帖』を読み返すと、鎭子さんや花森さんがもうとっくに携わってないけど、あちこちにお二人がいるように見えてきます。
それは、普遍的に守られてきたものが暮しの手帖につまっているからだと思います!
とと姉ちゃん、再放送・もう一度見られるのが楽しみです!
内容は、時代的なものもあり、悲喜こもごもですが、フレッシュな高畑充希さん演じる鎭子さんを見守り、応援しながら見つめます。
あの、花森さん役の唐沢寿明さんの怪演?名演もひそかに楽しみなんです!
キャストも豪華。主題歌・宇多田ヒカルさん『花束を君に』も、じんわりしながら。
それでは、お付き合いいただき、ありがとうございました!
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